たまたまつけっ放していたテレビでこの展覧会を知った。ちらっと見えた映像は、「洞窟」という作品。実際に存在する洞窟を写真で撮れば、ほぼ同じものが鑑賞できるのに、このトーマス・デマンドというドイツ人は、写真を元にすべてを紙でつくり直し、それを写真に写して作品にしている。気が遠くなるほどの手間と時間をかけてつくりあげたほぼ実物大の構造物は、写真を撮ったのち壊してしまうというところに、僕は軽い衝撃を受けた。

 初めて訪れた東京都現代美術館は、地下鉄「清澄白川」駅から深川の町並みを抜けて歩くこと10分ほど。ひと昔前の風情を残す下町の散策が、気持ちよい。そんな一角を抜けると、モダンな建物が出現する。入口に石原慎太郎知事の挨拶文があった。

 デマンド氏(1964-)が取り上げている対象には、政治的、社会的事件があった現場の風景がある。なんの変哲もないホテルの「浴槽」(1997)や「エスカレーター」(2000)などがそれである。背景を聞かなければ、何でもない場所。故に、何を感じるかは見る者にゆだねられていて、僕などは「???」となっているだけである。何でもないという意味では、単なる金網フェンスの「fence」(2004)などはその極みかもしれない。「これが紙なのか!」と思うととても不思議で、この写真の前では結構長く足が止まった。数は少ないが、自然が対象になっているものもあった。「洞窟」(2006)や「Lawn(芝生)」(1998)などで、人間が造ったものよりさらに複雑、不規則的で、紙でつくるとなると途方もない手間がかかるはずである。図録にあった多和田葉子氏(小説家)とデマンド氏のインタビューによれば、「芝生」をつくるのに3ヶ月間同じ作業を続けたという。芝の葉を切り続けるその時間がとても嬉しく、1分たりとも後悔してないとあった。関連して「忍耐」という言葉がもつ概念についての問答も興味深いものがあった。一例として、ハイナ−・ミュラー(1929-1995)というドイツの劇作家がベルリン芸術アカデミーでの教授職をわずか3週間で辞めてしまった話が紹介されていた。いわく、ミュラー教授が学生たちに与えた最初の課題(ブレヒトという劇作家の作品の一場面を丸々手書きするというもの)を誰一人やってこなかったというのがその理由。学生らは、そんなことに時間をかける意味がないと賢明なる判断をしたつもりだったのだが、ミュラーが求めたのは、戯曲を書きたいのであれば、最低でも一度は他人の戯曲を書き写し、文や個々の単語がどのように作られているか、書き写しながらそのテキストと共に時間を過ごすことに意味があったのだという。スピード感、加速感が求められる時代にあって、このエピソードが示唆している意味は大きいように思える。

 デマンド氏の作品に人間がいないのも、ふとひっかかった。自然はともかく、「製図室」(1996)にしろ、「copyshop」(1999)にしろ、本来は人がいる場所にいないのは「なぜ」なのだろう?デマンド氏の言葉を抜粋すれば、「人間を消しているのではなく、省いている。人がいれば物語の表現になり、それを見るわたしは観察者になり、イメージが閉じてしまう。ちょうど今、誰かがいたような印象をもってもらえれば、そのイメージの中へ入っていけると考えている。」

 人間はそんなに信用できる存在ではない、と書いていたのは養老孟さんだったか。自分の記憶も相当怪しいものがあるが、簡単に過去の叡智を忘れたり、騙されたり、扇動されやすかったりもする。自分の中に疑い深いところが少しだけ残っているとしたら、過去にひどい目に遭ったせいだと思うが、それでも大抵のことには目をつぶって生きているような気がする。そうしないと、生きにくい。背に腹は代えられぬというヤツか。ただパンを食べていくだけでも大変な時代だけど、そのパンの意味をわかって生きていくには、芸術の助けが必要だなと感じる有意義な一日だった。