横浜駅西口にある「横濱珈琲館」という喫茶店に入ると、男はアイスコーヒーを注文した。男は、その一日がどんなだったかを想い出すのに、度々そこを訪れた。
豆の種類も、例えば企画書の締切が近づき、切羽詰まっているようなときは、酸味が強く、頭の中をスッキリさせてくれるアフリカ産のキリマンジャロをチョイスし、或いは、仕事に一段落ついて、ゆったりくつろぎたいときには、苦みとコクの効いたマンデリンかモカ・マタリをオーダーした。この日は、アイスコーヒー。梅雨の合間の蒸した一日だったので、とにかく喉を潤したかったのだ。
「ご注文は、アイスコーヒーでよろしかったですか?」と訊かれて、ずいぶんと丁寧なんだなと思って顔をあげると、さっき注文したときとは別のウェイトレスが立っていた。
恐らく二十歳前の、清楚な感じのする顔立ち。ブルーの瞼は今の流行りで、そこだけ南国の鳥のようだなと思いながら、男はただ「ハイ。」とだけ答えた。
「ごゆっくり、どうぞ。」と、声は南国の鳥というより、どこか地中海のそよ風のようだった。
冷たい飲み物と店内の冷えた空気にあたって、男の火照った皮膚もようやく落ち着いてきた。ぼんやりとしながら、時々、さっきのウェイトレスを盗み見しながら、飲み物を干した。しばらくして、アイスコーヒーの氷が溶けて薄茶色の氷水が溜まったグラスをそっとテーブルの真ん中に動かして、男は席を立った。
会計で、さっきのウェイトレスともう一度会った。
男がさり気なく女の横顔を見ているのを、女も感じていた。視線が合わないように、男も釣銭を受け取ると、足早に雑踏に混じっていった。
時々、気が向いたときだけ立ち寄るHMVへ、この日は行った。ボサノバのCD3枚と、あとは最近流行のJ・POPを数枚買った。
誰もいない部屋に帰ると、男は、またあの女のことを思い出していた。
「地中海にいる南国の鳥」と、勝手にタイトルをつけた。
たぶん、俺には関係のない女だ、と思いながら、心の中に予感めいたものがあった。それが、男自身にも何だかわからず、ただただ胸が騒ぐのだった。
男は、独身だった。
関係をもった女は何人かいたが、結婚という具体的な話まで進展したことは一度しかなかった。
そう、一度はあったのだ。
大学3年のとき、北海道をバイクで旅していたときに出逢った女。彼女は、小樽で生まれ育ち、その当時は札幌で学生だった。たまたま泊まる当てもなく道を探しているところを彼女が見かけて、わざわざ近くのキャンプ場まで車で案内してくれたのだった。
「北海道の人は、温かいんだな。」と男は、ただそれだけを思った。
「ありがとう。本当にご親切にしてもらって。本当にどうもありがとう。」
男は何度も礼を言いながら、彼女の車が見えなくなるまで見送っていた。
翌朝、男が目を覚ますと、もう陽は高く昇っていた。
テントのファスナーを開け、夜露の付いたビニル袋からブーツを取り出し外に出てみると、誰かがそこで火を焚いていた。
「おはよう。コーヒー、入っているわよ。」と昨日の彼女が、そこにいた。
「なんで、ここにいるの?」目を擦りながら、男は口ごもった。
「見て、アレ。私のなのよ。」
彼女の指さした方に目をやると、赤いSRXが停まっていた。
「私もツーリング、行きたくなっちゃって!」
「一緒に。ダメかしら?」
「だけど、何処に行くの?俺の方は、キャンプしながら一周するんだけど…。」
彼女は、笑いそうになるのを必死に我慢しているような顔で男を見ていた。
「行けるとこまで行くわ!いいでしょ?」
「いい加減だな〜。まあ、その方がこっちも気楽だけど。」 それから10日間、ふたりは共に過ごした。
放牧された牛の大群に道を阻まれたり、夜中のドシャブリでテントが浸水したり、花咲ガニの食べ過ぎで半日寝ていたり、何ひとつ制約のない北海道の広々した懐に寝転んで、ふたりは自由に心を許し合った。
今度は東京で会う、と約束して、ふたりは別れた。
9月8日、彼女の家から手紙が届いた。
ツーリングの時に写した写真が何枚か入っていた。
中には男の寝顔の写真もあった。
「いつの間に、こんなの撮ってんだよ。」
懐かしさ、会いたさ、可笑しさに微笑みながら、手紙を読むうち、男の顔が歪んだ。
「八月三〇日、午後四時三二分。札幌市内の交差点に停車中の彼女のバイクに、大型ダンプが突入し、バイク大破、彼女も重体に陥る。すぐに救急車で運ばれ、市内の病院で集中治療を受けるが、翌午前零時五分に死去す。彼女の遺品から貴方のことを知り、…」
男は声をあげて泣いた。
もうこの世の中のすべてが信じられなくなった。
今すぐ彼女に会いたい。今すぐ北海道へ飛んで行きたいと思った。そう思うことが無駄なことだとわかると、今度は自分が情けなくて、とにかく泣き続けた。
2日間、男は水だけを飲んで、暗い部屋で死んだように寝ていた。寝ていても、一睡もせず、頭の中には、ただ彼女のことだけが、何度も何度も繰り返し映し出された。
3日目、意を決して、男は札幌行きの飛行機に乗り、小樽へ向かった。手紙の住所をたよりに、彼女の実家を訪ねた。
家には、彼女の祖母だけがひとり、暗い部屋の中にいた。
男が身の上を話すと、ハンカチですでに赤く腫れた目を押さえながら、男を彼女の部屋へ案内した。
部屋に入るなり、男は泣いた。堪えようとすればするほど激しく嗚咽が上がってくる。体中が無性に震えて、どうかなってしまうんじゃないかというくらいに感情が盛り上がってくるのだ。机の上に置かれた遺影は、男が知っている彼女そのものだったが、そこだけ、時間が止まっていて、二度と動かない笑顔だった。
「どうやったら、この現実を受け入れられるのだろう?」男は、全く力のない自分に、ただただ途方に暮れた。
そのことが、男が今、独身でいることの理由になるのかどうか、それはわからない。ただ、30を超え、周りの友人らが身を固め、立派な父親ぶりを発揮するのを端で見ていても、どうしてもその気になれないのだった。どうにかしようなんて気も全くなく、ただ日々を男なりに楽しく生きているのだった。
ひと月ほどして、男はまた「横濱珈琲館」へ行った。
「トラジャをお願いします。」
何となく、特別なことをしたいという、男の気分だった。
しばらくして、コーヒーとミルクがテーブルに置かれた。
「トラジャでよかったですね!」
その声に顔を上げると、注文のときとは別のウェイトレスが立って、こっちを見ていた。
「地中海にいる南国の鳥」だった。
なぜだかわからないが、視線が合った瞬間に、心と心がつながったような不思議な感覚が走った。
彼女の方もそれを悟っているようだった。
「今日は、特別な日になりそうなので…、トラジャなんです。」
男は、スプーンに一杯砂糖を入れて、ゆっくりとひと口、トラジャを飲んだ。何とも誇り高き味わいが口の中に広がり、モヤモヤしたものがすべてスッキリと晴れていくような気分だった。
「人生、諦めないってことかな。」
男は、小樽の彼女が、今ここに来て笑っているような気がした。