|
これからの「正義」の話をしよう
著者:マイケル・サンデル
この本が発行されたのは今から10年以上前の2010年。同年、NHK教育の「ハーバード白熱教室」も話題になっていたが、何となく敬遠していた。正義はいくらでも捏造できるし、解のない堂々巡りの迷路を彷徨うことになりそうで、面倒くさかったのかもしれない。今年(2021年)、マイケル・サンデル氏の新刊「実力も運のうち 能力主義は正義か?」が出版され、話題になっている。たまたま本人のインタビューをテレビで見て、その人間性に惹かれた。こんなにもややこしい世界にいて、決して諦めず真剣に人間と社会のことを考え続けている、その姿から深い人間愛を感じて感動し、感銘を受けた。
誰でも正義感を持っているだろうし、その根底にその人なりの価値基準があると思う。普段は意識してない人が多いかもしれないし、日々意識している人もいるだろう。僕は後者のタイプで、常に「楽しいか否か」を考えるクセがある。明確に意識するようになったのは二十代の頃だ。大学時代、友人Sが実にさりげなく言った「しない後悔よりする後悔」も影響したと思う。やるかどうか迷うとき、損得とか見栄とか実現性とかではなく、とにかく心の底からワクワクして楽しいと思えるかどうかで決めることにしている。岡本太郎さんは、楽な道と困難な道があったら、必ず困難な方を選ぶと語っていた。僕はそこまではしないが、少なくとも楽だから選ぶことはしないようにしている。では、「楽しければ何をしてもいいのだろうか?」も、しばしば自問自答してきた。最近のニュースでいえば、アフガニスタンのタリバン政権、少し前はミャンマー軍のクーデター、小田急線で起こった傷害事件、躾と称した児童虐待、夫婦間のDV、職場でのパワハラなどなど枚挙に暇がない。「他人を支配し、自分の満足感を得ることは、本当に楽しいことなのか?」例えばヒットラーは、傍若無人に振るまい、多くの国民の心を掴み熱狂させ、世界を席巻しながらも、心の底から満足し、平安な気持ちで楽しいと感じたことは決してなかったように思える。「楽しい」は意外に奥が深い、と僕は思っている。
三十の頃、職場の同僚Aに勧められた内山節著「自由論」を読んだとき、これはいい判断基準になると直感した。「楽しいか否か」と「自由か否か」、大抵のことはこの二つで判断してきたが、五十を過ぎてから、職場で難しい立場に置かれることが増えた。多くの人の言い分を注意深く聞いていると、「みんなのため」、「あなたのため」という美しい言葉を使いながら、実は自己保身や自分の主張を通そうとしていることが気になるようになった。何しようがその人の「自由」ではあっても、相手によって態度を変えたり、立場によって言うことが違う人を見ていると、人間としてどうなのか不信感をもつようになった。あるとき、明らかに不当な、理不尽と思われることで人前で大恥をかかされることがあった。恥ずかしさや悔しい気持ちが込み上げてくる中で、「何故、自分が恥ずかしがっているのだろう?」と思う冷静な自分に気付いた。本当に恥ずべきなのは相手の方で、恥をかかされている自分の行為には、何もやましいことはないではないか。「楽しい」や「自由」では捉えきれない事象に対して、初めて「恥ずべきことか否か」という第三の視点をもつことになった。自分の拙い体験談を長々と書いたのには理由がある。本書の中で著者は、正義へのアプローチとして、「幸福」、「自由」、「道徳」を掲げていた。結構、驚いた。頭の中で、「幸福」=楽しいか否か、「自由」はそのまま自由、そして、「道徳」=人として恥ずべきか否かと符合するように思えた。さらに先を読み進めると、こうも書いてあった。「誇りと恥は、共有するアイデンティティを前提とした道徳的感情だ」。やはり、恥は「道徳」の概念といってよさそうだ。足掛け30年くらいかけて掴んだ自分なりの価値基準が、世界的な政治哲学者が提示する基準と同じであったことは、我ながら衝撃だったので、そのことは記しておきたいと思った。勿論、この行為自体が自分にとって楽しいことなのは言うまでもない(笑)。
さて、本書は、有名な思考実験「トロッコ問題」に始まる。暴走する路面電車がそのまま直進すれば線路上の作業員5名の命が失われ、待避線に誘導すれば1名だけの犠牲で済むときに、どうするのが正義なのかという問いである。当然、容易に答は出ないので、延々と考え続けることになる。正解を聞いて暗記する類のものではなく、思考すること自体に意味があるのだと思うが、この難題をAIロボットのソフィアに問いかけた様子をYou
Tubeで見ることができる。なかなか面白いのだが、これとは別に、「AIロボットは自我を持つか」という興味深い動画もあった。人間の脳を模しているから、いずれは自我をもつだろうと僕は思う。そうなると人間がそうであるように、敵味方という意識が生まれ、自己防衛や敵を攻撃したい欲望をもつようにもなるだろう。「2001年宇宙の旅」(68)、「ターミネーター」(84)、「her/世界でひとつの彼女」(13)、「エクス・マキナ」(15)など膨大なSF映画が描いているように、いつか現実化するに違いない。それを望んでいる人はいなくても、AIロボットのプラス面を追求する純粋な科学者たちがきっと開発してしまうに違いない。
この本を読んでいる時期に、ちょうど東京オリンピックが開催されていた。自国開催がコロナ禍と重なったことで特別なオリンピックになった。様々な感情が日本中に渦巻いたが、個人的に特に印象に残ったことを3つ、記録として書いておこうと思う。
まず1つ目は、コロナに対する国民の反応。開催が近づくにつれ反対派が増え、直前には「開催すべきではない」が約7割に達した。自分は一貫して開催を支持していたのだが、その理由は、アスリートたちが気の毒というような理由ではなく、開催すればしただけの価値があると想像したからである。何事にもリスクはつきものである。最も衝撃的だったのは、開催と同時に変化した国民の態度だった。まさに手のひら返しである。日本人がメダルを獲得するたびに熱狂し、アスリートらを絶賛し、オリンピック開催を楽しもうという機運が一気に爆発した。そして、無観客開催にもかかわらず人々は街に繰り出し、人流が増えていった。結果としてコロナ感染者が激増することになり、医療崩壊が現実化してしまうのだが、この間、個人的にはこの国民の動向に呆れるばかりか、憤りさえ感じていた。僕自身は開催を支持してはいたが、そのための交換条件は、自粛の徹底だった。国民一人一人が協力することで、大きな試練を乗り越えていけるという期待があった。大多数の日本人の行動からは、開催反対も開催を楽しむことに対しても、深い考えが感じられなかった。「深い考えがそもそも必要か?」という意見もあるかもしれないが、そこに強くこだわる理由は、人命がかかっていたからである。音楽とかファッションの流行などなら、誰が何を志向しようがどうぞご自由にと思っているが、医療崩壊が起こり、自宅待機を余儀なくされた人達が次々亡くなっているニュースが流れている中での日本人たちの無邪気で無自覚な行動には怒りを禁じ得なかった。ちょうど本書を読み進める中に、アリストテレスの「政治の目的」について記述した部分があった。「政治の目的は、人々が共通善について熟慮し、実践的判断力を身につけ、自治に参加し、コミュニティ全体の運命に関心をもてるようにすること」。今回の世相をみる限り、政治はうまく機能したとはいえず、国民各人が熟慮して個々に判断したわけでもなく、「みんなやってますよ」という有名な「沈没船ジョーク」そのものであったというのが個人としての印象である。命の問題といえば、70数年前、ほぼ勝算がなくなったにもかかわらず、精神論で国民を鼓舞し、女子供までもが竹槍で敵に立ち向かうことが正義であると国民が一丸となって突き進んだ悲惨な戦争末期を思わずにはいられない。
2つ目に印象的だったのは、今回初めて採用になった競技(スケートボード、クライミング)に吹いた新しい価値観である。その象徴的な出来事は、女子スケボーの決勝戦にも見られた。実力者の岡本碧優(みすぐ)選手が逆転をかけて、敢えて難易度の高い技に挑み、結果として転倒してメダルを逃してしまう。泣きながら競技を終えた岡本選手をオーストラリアと米国の選手が担ぎ上げ、他の選手も歩み寄って果敢な挑戦を讃えたシーンだった。メダルが国威を高揚させ、人々を熱狂させるのは間違いないが、それと同じかそれ以上の価値観をこの瞬間に感じた人は少なくなかったと思う。
オリンピックが当初の予想を遙かに上回る盛り上がりとなったものの、パラリンピックは、コロナ感染者数が過去最高となって開催が危ぶまれていた。しかし、いざ始まってみると、オリンピックとはまた別の感動ラッシュで大いに盛り上がった。パラリンピックの精神は、「できないことよりできることに目を向けること」とテレビ中継で語られていたが、まさにそのことを日々感じさせられた。例えば車椅子バスケ男子は、今大会で初めてメダルを獲得した。しかも前回のリオ大会金メダルの強豪アメリカとの決勝戦では、全く引けをとらない善戦をして、60対64という僅差での銀メダルである。こうしたパラリンピアンの活躍を讃える報道に対して、それは努力できない障害者への差別を助長するという指摘も話題になった。ハッとさせられた。確かに事実だろうし、正論のようにも思えた。しかし、重い障害を抱えた子供達が、パラリンピアンの活躍をみて将来に希望をもったというニュースを見たりすると、マイナスよりもプラスが大きいように、またそうなることを期待したいと思った。
この本の話題は多岐にわたり、サンデル氏の読者への問いかけは縦横無尽で果てしない。まだ幾つか言及してみたいテーマがあるが、あと1つだけ書いておこうと思う。それは、責任と謝罪に関するものである。「2000年、ドイツのヨハネス・ラウ大統領は、ホロコーストについて謝罪し、ドイツ人がしたことへの許しをこうた」、「2007年、当時の安倍晋三首相が、慰安婦の強制連行の責任は日本軍にはないと強弁した」、「2008年、オーストラリアの新たな首相に選出されたケヴィン・ラッドが先住民への公式謝罪をした」、「1988年、当時のロナルド・レーガン大統領の署名により、第二次世界大戦中、西海岸で日系アメリカ人を強制収容所に収容したことを公式に謝罪する法律が成立した」などたくさんの事例が紹介されたのち、こうした国家の歴史上の過ちに対する謝罪に対して反対する人たちの主張が書かれている。「現存する世代は前の世代が犯した過ちについて謝罪する立場にないし、現実問題として謝罪できない。(中略)不正について謝罪できるのは、なんらかの形でかかわった人だけである」。さて、この場合の正義は、どうなるのだろう。ずっと読み進めたところに、先に紹介した誇りと恥が道徳的感情だという文が出てくる。そして、「愛国心からの誇りをもつためには、時代を超えたコミュニティへの帰属意識が必要だ。帰属には責任が伴う」という文脈へつながっていく。
この本には、何が正解なのか書いてあるわけではない。問題意識と問いかけ、判断材料の提示、様々な考察が綴られている。僕は、このような講義をハーバード大学の延べ14,000人の学生達が履修したことに感動を覚える。これからの時代を作るのは、若者たちだ。過去の人達の罪をすべて負うことはないと思うが、実際にはそこから目を背けている限り、先には進めないと思う。勇気と知恵を尽くして、未来を切り拓いていって欲しいし、自分もよりより世界のためにできないことではなく、できることを探して実践していきたいと思う、という気持ちにさせてくれる本でした。
(早川書房)
|