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「サル化する世界」
著者:内田樹
「人間だって詰まるところは動物にすぎない」という諦念じみた思いの一方、「そのレベルでは、動物と同じだろう」という苛立ちの狭間で常々揺れ動いている自分がいる。内田樹氏の著作は10年ほど前に「日本辺境論」を読んだくらいだが、時々、新聞コラムなどで読むと、共感することが少なくない。この本の帯紙のコピーにも食指を動かされた。「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」に、なぜかワクワクしてしまった!読み始めると、いちいち納得だった。内容が濃く、論知的飛躍もなく、地に足がついた感に好感がもてる。そんな風に思えることが、日常ではあまりない。そうでないことが多く、「お前はサルか!」と内心思ってしまう毎日を過ごしている。そういう自分も似たようなものかもしれない。しかし、サル化しそうな自分を何とかしなければと危機感はもっている。今さえよければ、自分さえよければではダメだろうと頭を抱えて過ごしてはいる。
本書の「サル」は、「朝三暮四」のサルからきている。含蓄ある話ばかりだ。例えば、「民主主義」とは投票して多数を得た方の案が採択されるというだけのことで、その案が正しいということとは別のレベルだという文章がある。そりゃそうだとすんなり理解できる人もいるかもしれないが、現実はちょっと違ったことになっているのではないか。立法府で採択された案を執行する行政府は、「公人」として、反対者を含めた全体を代表しなければならない。しかしながら、今の日本の内閣総理大臣は、自分の支持者のみを代表し、さらに支持しない人間の声を代弁しないだけでなく、敵視し、積極的に弾圧し、黙らせようとさえしていると内田氏は厳しく言及している。桜をみる会の出席者リストを大急ぎでシュレッターにかけたり、政権よりの検事長の定年延長を口頭で法解釈を変更してみたり、森友学園事件で文書改ざんを指示された職員が自殺した問題について、納得できる説明もせず再調査しなかったり、「やりたい放題」になっている。下らない質問をする野党こそに問題があると一蹴する政府とそんな政府を支持している国民は、まさにサルではないかと思ってしまうのだが、そう思う自分の方がサルなのだろうか?
近年、「AI」が脚光を浴びている。しかし、大事なことをAIに考えさせて自ら考えることを放棄してしまったら、サル化はさらに加速されやしないか心配になる。「自分なりに考えてみる」ということは、面倒くさかったり、必ずしも正解が得られるわけではないが、その習慣が思考力を高めたり、その行為自体が生産的であるからこそ喜びや充実感が味わえたりするのだと思うが、世の中は利便性、即時性、コストを優先する方向へ邁進しているようで気がかりだ。
「憲法9条と自衛隊」の問題も興味深い論考だった。アメリカ合衆国憲法が常備軍の存在を認めていない事実を僕は知らなかったが、合衆国憲法第8条に「陸軍を招集し、これを維持する権限。ただし、この目的のための歳出の承認は2年を超えてはならない」と明記されているらしい。常備軍は必ず為政者に従い、抵抗権を振るう市民と敵対するということを経験的に知っていた建国の父たちの揺るがぬ確信だったのだろうとある。憲法と現実の齟齬が日本固有の問題ではないという例である。一方、日本国憲法9条第2項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」が書かれたとき、GHQの脳裏にあったのは、権力に盲従する「常備軍」が廃絶されたあとに、自衛のために武装する市民たちがそれにとって代わることを夢想していたのではないか、と著者は述べている。これは、あくまで想像ではある。しかし、いわゆる軍隊とは違う自衛隊の位置づけに本質的な意義があるように思える。
戦後70年の「比較敗戦論」も考えさせられる内容だった。連合国が勝ち組、日独伊が敗戦国と単純にはいえないという話。フランスがドイツに加担し、国内のユダヤ人を摘発して、アウシュビッツに送り込んでいた事実。イタリアでは、1943年7月に反ファシスト勢力がムッソリーニを独裁者の地位から引きずり下ろし、内戦を経て、ドイツ軍を敗走させ、1945年7月には、日本に宣戦布告していたという事実。東ドイツは、ナチスと戦い続けたコミュニストが建国した戦勝国ゆえに、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に対する罪の意識より被害者意識があること。1990年に統一されたとき、東西ドイツの人口比は、1対4だったという事実。そういうことをちゃんと知らないのは、教育のせいなのか、自分の勉強不足のせいなのかわからないが、歴史を修正することなく、事実は事実として国民が共有することが大事だと思う。清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることこそが同じ過ちを繰り返さないために必要な作業だという著者の意見に僕も賛同したい。例えば政治家が「真摯に説明する」と言いながら実際には一切説明しない姿勢に人として疑問を禁じ得ない。その場しのぎの表面的な誤魔化しは、結局、弱さにつながる。その弱さは恐れに通じ、疑心暗鬼が無謀な強行、時には(言葉の)暴力になる例は少なくない。
最後にフロイトの卓見として書かれた部分を引用しよう。「押し入れの奥にしまいこんだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる」。歴史解釈だけでなく、日々の企業活動や日常的な営みにおいても、思い当たる節がある。サルになってはいけないと肝に銘じておこう。
(文藝春秋)
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