坂 道
 
 
 久しぶりに帰省したら、駅前には新しいビルが建ち、小さな書店や饅頭屋はなくなって、代わりにコンビニとマックが看板を並べていた。ずいぶんと町の雰囲気が変わってしまって、気のせいか、住んでいる人間自体も変わってしまったような気がした。
 そんな感慨を抱きながら、ぶらぶらと上り坂を歩いていたら、突然、通りすがりの女性に声をかけられた。
「もしかして、Tくん?」
ふいに自分の名前が呼ばれて、何故か慌てた。後ろめたいこと、別にないのだけど…。
時刻は、夜11時を過ぎていた。
「えっ、M.T?」
「そうよ〜!」と透き通った声が返ってきた。
中学校卒業以来である。クラスが一緒だったのは小学校まで。ということは、面と向かって話すのは実に10年ぶりだった。それでも瞬間的に、彼女のフルネームがついて出てきた。
「M.T」
当時の面影がそのまま残っている。きらきらと陰りのない瞳がそのままだ。それでいて、ずいぶん変わってもいた。小学生の頃といえば、男勝りな性格で、特に可愛いタイプでもなかったが、今、隣を歩く彼女の横顔は、正真正銘の美人。ちょっと幻惑されそうなくらい美しいのだった。変われば変わるもの。この場合は、いい意味で。何故か少し、悔しくなった。
「今、何してるの?」
彼女が先に、僕がしようとしている質問をした。
「農業関係の大学に通っていて…今日は部活で遅くなったんだけど」
「部活って、何してるの?」
歩きながら彼女の声が、昔馴染みの横丁に溶けていく。
「少林寺拳法…。らしくないでしょ?」
僕は中学まで背が伸びず小柄で、性格もおとなしかったから、体育会系で武道というのは、きっと彼女にとって意外だろうと予想していた。案の定、隣でクスッと笑ったようだ。
そういえば昔からそんな風に肩をすくめて、クスッと笑う人だった。
「今、何してるの?」と、今度は僕が訊いた。
「わたしは、英文科の短大を出て、今はスチュワーデスなんだ。すごい〜?」
彼女の声が陽気に弾んだ。気取らない性格は昔のままだ。
「すごい!本当にすごいな。友達にスチュワーデスがいるなんて、自慢できるよ」
JALのスチュワーデス。そんな感じだ。とても美人だし、雰囲気に品があって、応対も的確。ユーモアもあるし、笑顔がとてもチャーミングで、本当に素敵な…誰かの…恋人。
 10分くらい歩きながら話をして、坂を上りきった辺りで別れた。
別れてから急に懐かしくなった。
彼女のこと、好きだったこと。
 それから1ヶ月くらいあとに、もう一度、偶然、同じ坂道で彼女に逢った。
神様は2度、僕にチャンスをくれた。その2度のチャンスを、僕は無にした。
チャンスはあったのに勇気がなかった。
それ以降、彼女と逢うこともなかった。
 数年後、同じ坂道で、僕は別の女性に電話をかけた。
勇気を振り絞ってかけた電話の女性と今、同じ屋根の下で暮らしている。
坂の下から上まで歩く間に、僕の生涯にとってかけがえのない夢と現実が生まれた。同じ坂道からはじまり、現実は地上を歩き続け、夢は、今頃、どこか遠い異国の空を飛んでいるのだろうか。