「カステラ」
福岡の田島という片田舎に住んでいた頃、家にケンという雑種犬がいた。
ケンは、気性が激しく、家の者にさえよく吠える犬だった。
またケンは、どういうわけか首輪をはずすのが得意で、脱走の常習犯。
「本当に、バカ犬だね!」
世話役の母は、いつもケンに向かってそう叱っていた。
ある日の夕方のこと。
ぼくとケンとふたりで散歩していると、見知らぬおじさんに声をかけられた。
「キミ、かわいいね〜!」みたいなこと言われて、ちょっと怪しい。
しかし、いつもは激しく吠えるケンが、とても大人しい。
ケンを信用したわけではないが、何となく話しを聞いていたら、今度はおじさんがいいものをくれると言う。
それが、一片のカステラだった。
知らない人から物をもらってはいけないと思いながら、断る勇気もなく、遠慮してるふりしてたら、
遠慮しなくてもいいんだよと言われて、結局、手に持たされてしまった。
幸い、目の前で食べなくてもよかったので、「ありがとう」を言っておじさんとは別れることができた。
しかし、ぼくは困ってしまった。
捨てるのもおじさんに悪いし、かといって家に持って帰ったら、知らない人から物をもらったことを怒られそうだし。
そこで、ひらめいた妙案が、ケンに毒味をさせるというものだった。
カステラを半分に切り分けてケンに与えると、うまそうにペロリと食べた。
もっとくれって顔でぼくを見上げている。
しばらく、様子をみた。
平気だ。死なないみたいだ。
ぼくも食べた。おいしかった。
それからしばらくして、何の前触れもなく、ケンは死んだ。
カステラが悪かったわけではなかったろうけど、ぼくの中に罪悪感が残った。
毒味をさせたこと。
バカ犬なんて言ってた母もずいぶん悲しんでいたが、ぼくもスッカリ淋しくなってしまった。
当時8歳、もう20年以上もたつ今でも、カステラを食べるときにふとケンの
ことを想い出すのである。