|
人新世の「資本論」
著者:斉藤幸平
この本を読み始めてすぐに思ったのは、一字一句に無駄がないということだった。論理的飛躍もなく、なおかつ著者の主張に共感できそうな直感があった。こういう出会いは、心の奥までしみじみとした感激と歓びをもたらしてくれる。
「人新世」は初めて聞く言葉だったが、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンという人が作った言葉で、地質学的にみて人間たちの活動の痕跡が地球の表面を覆い尽くす新たな年代に突入したという意味だそうである。「レジ袋削減のためにエコバッグを買うその善意だけなら無意味どころか、有害にもなる」という問題提起から本書は始まる。 なんとなくSF映画をみるようなドキドキj感がある。
はじめに言及されるのは異常気象である。「100年に1度」といわれるような異常気象が毎年のように起こり、元に戻れなくなる不可逆な地点が迫っているというのだ。アル・ゴア氏の「不都合な真実」(06)でも描かれていたが、いきなり熱いお湯に入れられたカエルは飛び跳ねて逃げるが、水から徐々に熱していくとそのまま茹だって死んでしまうように、すでに始まっている危機の中で、人類は「まだ大丈夫」と呑気に構えているように思える。グローバル化によって被害を受ける地域や住民を「グローバル・サウス」というそうだが、先進国=グローバル・ノースの豊かな帝国主義的生活は、グローバル・サウスからの収奪や代償を転嫁することで維持されてきた。資源や安価な労働力を奪い、ゴミ処理を外部化することで先進国は経済成長してきたが、いよいよ外部化の限界がきたというのが、人新世の危機が意味するところである。
例えば、ガソリン自動車をクリーンな電気自動車にしようという機運が世界的に高まっているが、電気自動車に使うリチウムイオン電池をつくるためにはリチウムやコバルトといったレアメタルが必要になる。世界最大のリチウム産出国であるチリでは、大量の地下水くみ上げが生態系に影響し、アンデス・フラミンゴが減少している。コバルトの6割はアフリカでも最貧国であるコンゴの児童労働によって採掘されているという。こういった革新技術で新たな経済発展を遂げようとしているテスラ、あるいはマイクロソフトといった大企業のトップたちは、当然、こうした原料調達の現状を知っていながら、SDGsを推進しているというクリーンなイメージを宣伝し、多くの人々もそれを支持しているわけである。
タイトルにあるとおり、本書では「資本論」の新解釈を試みている。「資本論」の第1巻は1867年にカール・マルクスによって書かれたものだが、第2巻、第3巻は、彼の死後、盟友エンゲルスが遺稿を元に編集したものであるがゆえに、マルクスの考えと違う部分も散見されるようだ。しかも最も重要なことは、マルクスは「資本論」執筆後にも研究を進め、考え方を変えていったという。「なぜ、今更マルクスなんだろう?」と疑問に思うところだが、近年になって膨大な研究ノートが出版されて、最新のマルクス研究が今なお進められているという。本書によれば、「資本論」までのマルクスは、資本主義が発展し過剰供給による恐慌によって社会主義革命が起こるという楽観論を抱いていたのだという。しかしながら、「資本論」以降に自然科学の研究を進めるうち、自然破壊によって資本主義は立ちゆかなくなるため、持続可能な経済成長を目指すエコ社会主義を思考するようになり、さらに最晩年には、共同体研究により、経済成長をしない循環型の定常型経済へと変遷していったという。著者はそれを「脱成長コミュニズム」と名付け、それこそが晩年マルクスの到達点であるという全く新しい解釈を提示している。
著者の主張は、「平等」と「脱成長」ということになるだろう。資本主義経済が発展することで、いずれは途上国も先進国に追いつくといったイメージを僕自身ももっていたが、実際には格差が広がり、著者が指摘するように様々なしわ寄せが途上国を疲弊させている。すでに十分豊かだと思っても、もっと便利に、もっと快適にという経済発展が必然になっていることをずっと不思議に思っていたが、それこそが資本主義の宿命だったわけである。そうしなければ企業が潰れ、従業員も職を失うことになると思っていたが、それ以外のやり方がないわけではない。それが、人新世における資本論という本書が提示する新しい考え方である。資本主義の生活にどっぷりつかってきた僕たちがどうやって変わればいいか非常な困難がありそうだが、一人一人の意識改革と行動によって不可能ではないと著者はいう。斉藤幸平氏は1987年生まれの若き研究者で、権威ある「ドイッチャー記念賞」を歴代最年少で受賞している。稀代の才能によって書かれた本書は、もしかしたら歴史的な名著になるのかもしれない。今ならまだ間に合いそうだから、読むなら今でしょ!
(集英社新書)
|