THE BOOM
MOOBMENT CLUB TOUR 2014
〜25 PEACETIME BOOM〜

2014年10月19日(日)17:30-20:30
神奈川芸術劇場 3F B4 34

 結成から28年、メジャーデビューから25年、THE BOOMが解散することなった。原宿・歩行者天国での路上ライブで活動を始めた初日のお客はたった1名だったという。「厳しい世界に足を踏み入れてしまった」と当時の想いを宮沢さんが回想していた。たった一人の女性客が次のライブでもう一人誘ってきてくれて2名になる。「とても嬉しかった」という。そんなところから活動を始め、徐々にファンが増え、世界的なヒット曲にもなっていった「島唄」が生まれ、「作るべき歌」と宮沢さんが表現する歌の数々が多くの人に愛されてきた。「さよならは言いません」と宮沢さんは言っていた。「これからまた新しい出会いもたくさんあるだろうから、わくわくした気持ちです」とも語っていた。

 THE BOOMのメンバー4人は結成以来不動。宮沢和史(v)と山川浩正(b)は甲府市にある小学校の同級生である。小林孝至(g)も甲府出身で、栃木孝夫(d)のみ千葉出身。僕も「島唄」で彼らのファンになったので、はじめは沖縄のバンドなんだろうと勘違いしていたが、そうではない。それ故に、彼らが「島唄」を歌ったことに対して、沖縄でも相当の反発があったと聞いたことがある。そもそも、島唄は奄美群島の民謡を指す言葉らしく、THE BOOMの「島唄」がヒットしたことによって、琉球民謡が島唄になってしまったという批判もあるようだ。こういった沖縄、奄美双方からのバッシングに、メンバーは相当悩まされたようだ。それはそうだろう。あるニュース番組で宮沢さんは、「沖縄戦があったことは知っていたが、集団自決やひめゆり学徒隊のことは知らなかった。その無知だったことに対する怒りや、当時の軍事下の教育に対する疑問みたいなものに怒りがこみ上げ、地下のガマに残っている皆さんの魂を空に解放したいみたいな思いがあって、東京で『島唄』を作った」と語ったそうだ。歌にこめられたその強い想いが聴く者の心に届くのだと思う。単なる沖縄音楽の真似事に過ぎないといった批判について、喜納昌吉は「音楽は、魂までコピーすれば、それはもうコピーなんかじゃない」と言い、比嘉栄昇(ビギン)は「BOOMさんの『島唄』は画期的だった。それまでは沖縄のミュージシャンは本土でどう歌えばよいか分からず、本土のミュージシャンも沖縄で歌うのは遠慮があった。その橋渡しをポンとしてくれたのがBOOMさんの『島唄』です。ありがたかった」と述べている。確かに、デビュー当時のビギンには沖縄らしさは感じられず、「涙そうそう」や「島人ぬ宝」がヒットするようになったのは、「島唄」のずっと後である。この世界には、立ち位置や知識、見識、その他諸々の理由がない交ぜになって、考え方も主義主張も違ってくる。「島唄」についても功罪の両面があるのかもしれないが、負の部分は何らかの形で修復していけばいいと思う。人間の歴史は、常にそうやって玉石混交のまま変化してきたのだから。

 セットリストは発表されてないので正確にはわからないが、新旧織り交ぜて20数曲ほどだった。正直、他に聴きたい歌が多数あった。例えば、「ブランカ」とか「いいあんべえ」とか。でも、それは仕方ない。「数百曲の作るべき歌を作ってきて、もっと歌いたい歌、聴かせたい歌がたくさんあって、これだけしか歌えないことが悔しくて、淋しくて…」と宮沢さんらしい言葉で語っていたが、本人が「この歌を書くために、ずっと音楽をやってきたのかもしれない」と紹介したのが「世界で一番美しい島」だった。この日の個人的なベスト1は、「カルナヴァル」だったかな。勿論、「風になりたい」「からたち野道」「朱鷺」「いつもと違う場所で」「TOKYO LOVE」「島唄」、どれもよかった。途中、横浜開催のせいだろう、ダウンタウンブギウギバンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のカバーも格好良かった。驚いたのが、奥田民生の「風は西から」。ブームの歌さえやりきれない中で、特にヒット曲でもないこの歌を何故、カバーしたのか。オリジナルを忠実にコピーしていて、民生ファンとしては、感慨深い瞬間であった。

 3回目くらいのアンコールが最後の曲になった。「中央線」。ずっと堪えていたけど、最後に涙が出た。この歌は、心の中で故郷へ帰る歌。僕はいつも「故郷」に帰りたいと思っている。その想いが重なってしまったせいだろうか。ブームの歌を聴くと、なぜか懐かしい気持ちになる。