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紫陽花 / azisai
6月11日、雨。
この日が来るたびに、私は、あの日のことを想い出します。
あの日も、雨でした。しとしと、しとしと、一日中雨が降って、お庭の紫陽花の葉先から、ぽたぽたと雨だれが垂れておりました。どういうわけか知りませんが、その日に限って、私には、その雨だれが血の滴るように思え、背筋がぞっとしたのを覚えております。そして、翌日の朝、Kさんから連絡があって、あの人が死んだことを聞いたのでした。
今ではもう、紫陽花の雨だれを見ることはありません。
そう、私が全部切ってしまいましたから。あの人が死んだという知らせを聞いたその日のうちに、全部、抜いてしまった。
案外、涙なんて出ないものです。私は、まるで畑仕事をするように、冷静に、鋸で紫陽花の幹を切っていきました。全部切って、根こそぎ掘りとったら、すっかり疲れてしまって、しばらくの間、しゃがみ込んでしまいました。そして、小一時間もたったでしょうか。チリリンと鈴の音を鳴らして、シロがやって来ました。びしょびしょに濡れた私の顔や手や髪の毛まで、シロは一生懸命に舐めてくれました。柔らかくて、温かな、まるで、あの人の手のようでした。そう思った途端、涙があふれてきました。次から次へと、音もなく涙が流れ、真っ黒な土の上に落ちていきました。この冷たい土の中にあの人が逝ってしまったのだと思うと、さらに止めどなく涙があふれてきました。
あれから、35年になります。
私も、もうすっかりおばあさん。連れ合いのKさんが永眠してから、もう5年になります。もう私の涙を舐めてくれたシロもいません。私はたった独り残されて、本当に淋しい毎日を送っています。お迎えが来る日を待ち遠しく思って、日々、ひっそりと過ごしているのです。ただ、ひとつだけ、私の心が癒されるのは、朝夕に歩く材木座海岸にいるときだけです。あの人と歩いた砂浜にいると、あの優しげな声が遠くから聞こえてくるのです。あの人はこの浜がとても好きで、いつだって私を連れ出してくれました。あの人が飼っていた秋田犬のシロは小さい頃からここが好きだったようです。いつもチリリンと鈴を鳴らしながら、浜を走り回っていました。私にもよくなついて、飛び上がると私の背丈を超えるくらい立派な白い犬でした。
夏が終わるある日のこと、私はあの人に誘われて海に行きました。一緒に泳ごうと言うので、私は海水着を着るのが恥ずかしいと言ったのですが、このときばかりはあの人も無理を言って私を困らせました。あんまり頼むので、私も仕方なく海水着を身につけました。本当は泳ぐのが好きだった私は、海水着になると一目散に海に飛び込んで、どんどん沖に泳いでいってしまいました。泳ぎがあまり上手でなかったあの人は、私についてくるのが大変で、沖に来るまでにはすっかり疲れていました。あんまり疲れて、立ち泳ぎができないくらいだったので、私につかまってもいいわって言ったら、すまないと言いながら、遠慮がちに私の肩に手を回しました。すぐ前にあの人の顔があって、にわかに恥ずかしくなってしまって、ふたりで赤くなっていました。
海から陸を眺めていると、鎌倉山のうえに、2匹の鳶が舞っているのが見えました。くるくる旋回しながら、ぴーひょろろと愉しく会話をしているようでした。私はきっとこの人と結ばれるだと、そのとき、思ったのです。でも、人生なんて本当にわからないものです。あの人はいつだって優しかったし、生きることには誰よりも前向きでしたから。まさか、あのようなことをするなんて。本当に信じられないことが起きました。
その日、Kさんがあの人の家に行くと、誰もいないようだったと言います。留守なのかと思って玄関の引き戸を開けたら鍵がかかってなく、あの人の草履もあったので、中にいるのだと思って、上がっていきました。そして、あの人がいつも小説を書いている居間に、あの人は倒れていました。首から下にべっとりと血がへばりついて、部屋の中も半分くらいが赤く染まっていたそうです。机の上には、封に入った手紙が2つ置かれていて、ひとつはKさん宛て、そして、もうひとつが私宛てでした。
Kさんは、ずっとあの人の命を背負って、生きました。
それは返って死ぬることよりも辛いことだったと思います。あの人の想いを絶対に忘れず、その重苦しさに、ときどき耐え難いようでした。私ははじめ、自分は一生独りでいようと思っていました。あの人が死んだのも、自分のせいだったのです。私がKさんとあの人のどちらも選べなかったから、代わりにあの人が決めてくれたのです。あの人はKさんを心の底から尊敬していましたから、自分が身を引くのが当然と思ったのでしょう。でも、そう決心したら、その辛さに心が耐えられなくなってしまって、自ら命を絶ってしまったのです。Kさんに宛てた手紙には、私のことを任せると書いてあったそうです。Kさんは一生その重みを背負って、人生を全うしてくれました。そして、私だけが未だに生きているのです。
もう、十分だと思います。私は私なりに苦しんできたつもりでいます。そろそろお迎えが来るだろうと、そんな感じがして、だから彼の命日の今日、決心したのです。あの人が最後に書いた手紙の封を、開けてみようと思うのです。ずっとずっとこの日を待っていたのです。ただそれだけはしてはならないと自分に言い聞かせてきました。だって、もしそんな遺書のような手紙を読んでしまったら、もう私はあの人のことを忘れられなくなってしまうでしょう。そしたら、死んでしまったあの人より、Kさんに申し訳ないから。でも、もうKさんもいないのですから、もういいでしょう。やっとこの日が来たのです。35年前に書いた、あの人の元に帰りたくなりました。
麗子さんへ
生まれて初めて、あなたを見た日のことを思い出しています。
暑い、暑い夏の盛りでした。あなたは日傘をさして、私の前を通り過ぎて行きました。涼しげな目元が印象的でした。不思議なことにシロもあなたの通り過ぎていくのをじっと見ていて、ワンと私に向かって吠えたのです。その声を聞いて、あなたがこっちを振り向いて、軽く会釈をされたのを覚えていますか。
私は小説家になることを、ずっと夢みていました。それは本当に夢でした。夢は夢でいいものです。現実ばかりでは辛すぎますから。
今は、楽しいことばかり思い出します。いつか鶴岡八幡さんの縁日に行ったときのこと、あなたがシロを連れていたら急にシロが走り出して、その拍子にあなたの赤い鼻緒が切れてしまいましたね。私がその鼻緒を結んで、これで縁結びだって言ったら、あなたは本当にうれしそうに笑った。私も一緒になって笑っていたら、今度はあなたが泣き出して、そしたら私も泣いてしまって、シロまでワンワン鳴いて、今でも不思議な気がします。
私は、弱い人間です。だからこそ、小説も書けると思っていたのですが、もうダメです。もう、生きてゆけません。私にとってはあなたがすべてなのです。人間、そうなってしまっては生きてゆけません。
ふたりで材木座で泳いだ日、あのとき私は決めました。
あなたのことはKさんにお願いしようと。もしかしたら私が決める資格なんてないのかもしれませんが、Kさんならあなたを幸せにしてあげられるだろうと思えるので、そう決めたのです。そのときも、いいえ、ずっと、私はあなたを心底愛していました。でも、だからこそ、私は生きてゆけないのです。どうか、このか弱き人間をお許し下さい。いいえ、許さなくともいいのです。思いっきり叱ってくれていいのです。直接さようならを言えない私を冷たく怒ってください。
ただ、ひとつだけお願いがあります。シロの面倒をみてください。いい犬です。シロもあなたになついています。ときどき、いつも一緒に行った浜辺をシロと走ってください。きっと私も見に来ますから。
そろそろお庭の紫陽花がきれいに花咲く頃でしょう…。
きっと紫陽花がこんなに綺麗に咲くのも、今年が最後になると思います。だから、私は、この綺麗な季節にいなくなります。私の、最後の我が儘をお許し下さい。
昭和6年6月11日 麗子を愛する書生より
あの人の手紙は、しっかりとした筆で書かれていました。
読みながら私は、おかしくて笑えてきました。だって、あの人は死んでなかったのですもの。ずーとどこかで生きていたのですもの。あの人は、それとなく書いてくれました。私があの日、紫陽花を切ってしまったことを。あの人は、どこかで見ていて、それから手紙を書いたのでしょう。本当は死んではいなかったのです。恐らく、Kさんと話し合い、私のことをKさんに託す代わりに自分が死んだことにしてくれとでも頼んだのでしょう。あの人らしいことです。どこか少しへそ曲がりな、変な人だから。そう、生きていたの…。こんな風に私を喜ばそうなんて、あの人らしいわ。
そのとき、玄関口で、誰かが訪ねてくる物音がしました。
私はすぐに、あの人だとわかりました。
「やっぱり、生きていたのね。そろそろ来る頃だと思ったわ。」
私は、そっと立ち上がり、できるだけ平静を装って、表に出ていきました。
果たして、あの人が立っていました。35年前と同じ姿でそこに立って、にっこりと微笑んでいました。私も笑おうとしましたが、途端に顔が崩れて泣き出しました。それは仕方ないでしょう。35年も待たせたことを責めたい気持ちで一杯になり、感極まってどうしようもないほど泣きました。
ふと気が付くと、私も絣の袴を来ていて、35年前のあのときと同じ姿になっていました。
「どうして?」
不思議な感じがして、ふいに後ろを振り向くと、奥座敷に倒れている自分の姿が見えました。もう60のお婆さんが、すっかりやつれた哀れな姿で、横たわっています。その手には、褐色に日焼けした手紙が強く握られていて、ところどころ字が涙で滲んでいました。
たった独りの寂しい、とても静かな死でした。
「とうとうお迎えがきたのね。」
すべてを悟った私は、もう一度玄関の方を振り返りました。すると、あの人が優しい笑みを浮かべながら、そっと私の手を握りました。私は、35年も前のあの懐かしい温もりを感じて、遠い昔の、本当の自分自身に還っていきます。玄関を出ると、チリリンと鈴の音がして、シロがまとわりついてきました。そのとき、どこからか紫陽花の匂いがして、私も、その匂いになりました。
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