東北へ
 考えてみると、東北へは、あまり行ったことがない。日光は好きで何度も行っているのに、その先となると、なかなか足が遠のく。大学のときに、各県をまたがる林道をバイクで走り継ぎ、そこらの山中で野宿しながら秋田まで行ったことがあるが、それ以来かもしれない。旅というと、不思議と西へ向かうことが多いのだ。とにかく、関所から西へ行く。なんとなくホッとする。
 でも今回は、「青森でリンゴを食べたい」という息子の一言で、東北へ行くことにした。いろいろ調べてみたら見所も多く、岩手、秋田、青森をレール&レンタカーを使って、あちこち行ってみた。
2006年8月23日(木)〜26日(土)
 盛岡に着くてすぐ「啄木新婚の家」に行った。3週間しか住んでなかったから、そんな名前になっているのだろう。石川啄木はわずか28歳で他界するまでに、一生分の仕事をしてしまったのかもしれない。盛岡名物といえば「わんこそば」。東家というお店に予約を入れた。普通、男性で50杯、女性が30杯くらい食べるという。15杯がザル1枚相当だという。平均も厳しいなぁと思いつつ、食べた。食べても食べても、結構食べられる。ついつい100杯食べてしまった。「もう少しいけそうね」という言葉に乗せられ108杯まで食べて、思いっきり後悔した。お腹の中でそばが膨張してきたのだ!「う〜苦しい〜!」。ちなみに559杯が最高記録。「1、2、3、信じられな〜い!」。
 なるべく身体を揺すらないように注意しながら、盛岡からレンタカーで南下して、花巻市にある宮沢賢治記念館へ行った。昔から宮沢賢治の世界は、僕にはわかりづらい。今回の旅行に合わせて「注文の多い料理店」を読んでみたが、やはりしっくり来ないものがある。それなのに、記念館にあった直筆の「雨ニモマケズ」を見ていたときだった。つ〜と涙が流れて落ちた。僕は知らなかったが、「雨ニモマケズ」は作品ではなく、ただのメモだった。死期を感じとった賢治が、その思いを綴ったものだったのだ。本当にこの土地を愛し、この土地の人を愛し、それらのものに対してできる限りのことをしたいと欲し、にもかかわらず身体が思うようにならない不甲斐なさに押しつぶされそうになりながら綴った切々たる言葉。37年という短い人生の中で天文、音楽、農学、絵画、文学とあらゆることに才能を発揮した人。貪欲にして無欲な人。少しだけだけど、賢治という人がわかった気がした。
 花巻から再び盛岡に戻って、小岩井農場へ行った。賢治の作品にも登場するこの牧場は、小野義真(日本鉄道)、岩崎弥之助(三菱)、井上勝(鉄道庁)の3人により、1891年に創業している。小岩井というこの牧歌的な名前は、実は地名ではなく、3人の創業者の頭文字から付けられたものである。100余年前は荒れ果てた原野だったこの土地に植林をして作ってきた3000haにおよぶ農場は、酪農に始まり、乳製品の加工、鶏卵、観光、研究…など着々と事業展開がなされてきた。厳しい寒さに打ち勝ち、賢治のいうイーハトヴを継承してきたのかな、という印象の場所である。その夜は、八幡平にある松川温泉に泊まった。途中で道を間違えて遅くなってしまったが、話好きの女将さんがずっと息子の話し相手になってくれた。「ここには蚊がいない」という話が羨ましかったので、覚えている。
 翌朝は、トンボ遊びから始まった。ここのトンボは人間を怖がらないのだ!指にとまると顔を洗ったりしてくつろいでいる。洗ったその手は口にもっていってモグモグしているのが、まるで猫の毛づくろいのようだった。宿のすぐ近くには、日本初という地熱発電所があったので行ってみた。温泉=火山=地熱ってことで、こんなところにあるんだろう。そこから樹海ラインをドライブしながら、八幡平の眺望を楽しんだ。
 八幡平をあとにして、さらに北上。途中、滝沢という辺りは雨が多いと聞いていたが、その通り、土砂降りになった。幸い、発荷峠に着く頃には止んで、そこから十和田湖の全景が見えた。紅葉の頃は、すばらしいらしい。十和田湖は火山活動によってできた二重式カルデラ湖で、二重なのはアメリカとここの2つしかないと、昼食に入った湖畔のレストランにあったガイドに書いてあった。そこで何気なく手にとった十和田湖の伝説にも感動したあと、奥入瀬へと向かった。奥入瀬渓流は、十和田湖から太平洋へ流れている全長14kmの清流である。所々に見所が点在しているので、車で移動する人も多かったが、僕たちは時間もあったので、石ケ戸という場所にある駐車場に車を停めて、渓流沿いの遊歩道を歩くことにした。マイナスイオンがどの程度効いてるのかわからないが、歩いていてとても気持ちよかった!太陽光が遮られた森林の中で渓流の写真を撮ると、シャッタースピードが遅くなるので、いい雰囲気に撮ることができた。2日目の宿は、そこからすぐの蔦温泉という明治42年創業の古〜い旅館だった。泉響の湯というのがあって、文字通り、源泉がすぐ板の下にあって、ポコポコと湧き出ている湯が足裏に感じられるのである。
 翌日は、山内丸山遺跡へ行った。場所は青森駅から車で20分くらいのところである。もともとは県営野球場を作る予定で開発を始めたところ、紀元前3500〜2000年前という貴重な遺跡が出てきたというわけである。現在は、山内まほろばパークとして整備され、縄文時遊館という立派な展示施設も作られているが、入場無料なのがびっくりだった。この遺跡の発見によって、縄文人の暮らしもだいぶ見直されているらしい。全長32mもの大型竪穴式住居があったり、高さ16mにもなる大型
堀立柱建物(復元中)があったり、山中でありながら海産物を食べていた跡が発見されたり、原始的と思われていた縄文人のイメージは、大きく変わろうとしている。縄文時遊館では、土偶づくりや琥珀ペンダントづくり、火おこし体験などいろいろできて、予想外に楽しめる。ちなみに僕は、組ひも作りというのをやってみたら、不器用なりにキレイな飾り紐ができた。
 青森といって思い出す作家は、太宰治である。「走れメロス」はいいが、「人間失格」を読もうとして大嫌いになった。その後、友人の勧めで「ヴィヨンの妻」など中期の短編を読んでから印象が変わったが、どちらかというと好みではない。津軽半島の金木というところにある太宰の生家は、今は「斜陽館」という名の記念館として公開されている。斜陽を迎えるまでは大変裕福だったので、すごく豪勢で見応えのある家屋だった。時代の変遷を感じる場でもあった。
 斜陽館を出る頃まさに陽も傾いてきており、車を西へ走らせた。沈む太陽を正面に見つつ、日本海に面したホテルを目指した。部屋に入ると、ちょうど真っ赤な夕陽が水平線に沈むところだった。美しくも淋しい感じのする夕陽だった。
 その夜、ホテル内で、津軽三味線の生演奏があった。三味線と唄と踊りと、ふだん聴くことがない貴重な機会だった。最後、一緒に見ていた息子が舞台に呼ばれてしまった。他に子供が少なかったせいだろう。「もう夏休みの宿題、やったかい?」とか「サッカーやってるか?」とか津軽弁で質問されていた。そのうち三味線を弾かせてくれて、意外にも大きな音が出たので、奏者のおじさんもお客さんも喜び、喜ばれて息子も得意になっていた。いい想い出になった。
 3泊して4日目の朝、いよいよ帰る日になった。そもそも「青森のリンゴを食べよう」ということで来た旅行だったが、いまだその機会がない。一応、この日に寄るつもりでいたが…。ホテルを出てしばらく走ると、ちょうど五能線の踏切があった。日に何本かしか走ってないのだろうが、たまたま遠くで車両が見えたので、待っていた。何しろ息子が電車好きなので、待っていたら5分以上かかってようやく近づいてきた。写真が撮れて、息子は満足げだった。それから海岸線沿いを南下して、白神山地のふもとに点在する十二胡を見に行った。実際には33の湖があるのだが、大崩山頂から見えるのが12ということからその名称がついてるそうだ。十二胡の1つ、青池までは、駐車場から少し歩くが、透明度が9mもあるその青は、神秘的な色をしていた。なぜそんな色になるのか、科学的にはわかってないという。さて、このあと困ったことになった。夕方の新幹線に間に合うように盛岡まで帰るのだが、地図上で見ていた道がアップダウンの激しい未舗装路で、通過するのに時間が2、3倍かかることがわかったのだ。無事に時間までに行けるか微妙、しかも、リンゴ園に寄る時間はとても無理という状況になってしまった…。とにかく行くことにして、できる限りのスピードで林道を疾走した。途中、何台もの車を追い抜きながら、通常の時間よりかなり早く走り抜けた。借りているキューブが壊れるんじゃないかと心配になったが、よく走ってくれた!時間はギリギリだったが、弘前市りんご公園に寄った。まだリンゴの季節が始まったばかりで、「未希ライフ」という一番早生の品種が今週から獲れはじめたところだった。なんとか急ぎ足で当初の旅行目的も達成し、あとは高速を吹っ飛ばして、盛岡にも時間前に滑り込むことができた。レンタカーを返し、駅で盛岡名物の冷麺を食べて、一息ついた。すぐ近くにわんこそばの店もあったが、まだ食べようという気持ちになれなかった。新幹線に乗ると、急に眠くなり、旅のつづきは夢の中となった。今年の夏も、これで終わる…。