あっという間に帰る日がきた。この日もラッシュのピークになるとニュースで言っていた。行きのことがあるので、どうするか考えものだった。いっそのこと夜まで滋賀にいて、夜中に帰った方が時間的には楽かもしれないとも思いながら、とりあえず朝一で京都を出た。滋賀県彦根市、ここに先祖のお墓がある。僕のルーツもどうもこの辺にある、という話を京都の伯父さんに聞いたばかりであった。
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関ヶ原の戦いで敗れた石田三成のあと彦根に入ったのが、徳川譜代の筆頭、井伊家だった。20年かけて築城された彦根城は、一度も戦禍に遭わず現存している。彦根城を中心に作られた城下町では、武家屋敷や町家が当時の風情を残している。
さて、井伊直弼である。関ヶ原の戦いで武功のあった井伊直政から数えて第13代彦根藩主である。もっぱら「安政の大獄」から「桜田門外の変」までの汚名しか知らなかったが、少し調べたら意外な素顔を知ることができた。11代藩主直中の14男だった直弼は、家を継ぐ可能性はまるでなく、養子にいくか、嫁ももらえぬ「部屋住み」として生涯を送る運命にあった。結局、養子にもいけず「部屋住み」となった直弼は、国学や居合術(免許皆伝)、禅、茶道などに打ち込み、いずれも一流の域に達したという。ところが正式な後継者が病死し、しかも子がなく、他の兄弟が他家に出ていたため、直弼が藩主になってしまう。その3年後に黒船が来航し、日本中に尊王攘夷論が沸き起こる。そこへきて、病弱だった13代将軍の後継に、攘夷派の水戸藩から一橋慶喜が浮上。開国論者だった直弼は大老となって、攘夷論者の徹底排斥を行った。結果的に日本は開国していくのだが、その過程であまりに過激な厳罰を行った直弼は、非業の死を遂げるわけである。もしも「部屋住み」のまま生きていれば、違った人生を送っていただろう…。運命はわからないものである。
「一期一会」という。利休の門弟の書に初めて登場するが、その後、直弼の著した「茶湯一会集」によって、その言葉と精神が広められたという。
琵琶湖畔に建つ長浜城は、秀吉が初めて一国一城の主となった城である。元は今浜と言った地は、信長の長をつけて長浜となった。のちに山内一豊も城主となる。廃城後は彦根城に石垣などが運ばれた。
現在の長浜城は昭和58年に再興されたもので、中は歴史博物館になっていた。平成18年4〜11月までは「北近江一豊・千代博覧会」の会場にもなっている。大河ドラマの影響は大きく、町中が「功名が辻」イベントでにぎわっていた。たまたま入った「翼果楼(よかろう)」というお店には「千代御前」というメニューもあった。とても美味しかったのと、上川隆也さんら出演者も以前来たと知って、嬉しかった。
秀吉は長浜に楽市楽座をしき、自由な商売を行わせた。そういう気風の中でガラス文化も培われ、黒壁スクエアという地区にはガラス工房が沢山ある。土産物屋や喫茶店なども多く、歩いていて楽しいところだ。不思議なものも見る。1つはひょうたんマーク。「何だろう?」と思ったら、秀吉が合戦の馬印に使っていたのが由来だった。もう1つは万華鏡。あちこちの店先に置いてあるのと、高さ8mの巨大万華鏡もあった。すっかりのんびりした。
さて、あとは長距離ドライブだ。長浜をあとにしたのは午後4時。大渋滞を覚悟していたらなぜかガラガラで、6時間で家に着いてしまった。.「なんで?」不思議な気分のまま、眠りについた…。