「風音」
−The Crying Wind−
 
 
 
幕開けの映像。
「何だろう?」と思って見ていると、海だった。
走る船の上から見た海の映像の先に、やがて島影が見えてくるが、ふと違和感を覚える。
「折角の沖縄なのに、なんで曇っているの?」
自分が漠然と期待している「沖縄イメージ」を、この作品はオープニングから裏切った。
 
物語は、和江と一人息子のマサシが沖縄に帰ってくるところから始まる。
マサシは小学校4年生、村に住むアキラ少年にテラピア釣りに誘われ、
釣りや冒険ごっこを通じて次第に島に溶け込んでゆく。
そんな親子が主役かと思いきや、2人とは別に藤野志保(加藤治子)という老婦人が登場する。
沖縄戦で戦死した恋人、加藤真一の消息を知るため、何度か沖縄を訪ねている。
藤野は区長の紹介で、加藤の消息を知っているかもしれない海人(うみんちゅ)のもとを訪ねる。
その海人、清吉(上間宗男)が主役である。
 
とはいえ、主役中心の話ではない。
それぞれの登場人物がそれぞれに「過去」を抱え、
それらの過去を清算するため互いに交流を深めてゆく「現在」の物語である。
25万人もの犠牲者を出した沖縄戦時下での藤野と加藤の最後の1日や
和江とマサシの本土での暮らしぶり、海に面した風葬場の崖で清吉が今亡き父としたこと。
主人公たちの様々な「過去」が明らかになってゆくが、
これらのシーンがすべて鮮やかなカラー映像であることに、若干の違和感があった。
他にも、話の展開や終わり方などで、何となくだが違和感のようなものを感じた。
 
映画を見終わって、プログラムに目を通し、東監督や目取真氏のコメントを読んではじめて、
私は映画の中で感じた「違和感」の意味を知った。
「夢も過去も現在も、すべて等価値な”現実”だと思っている」と東監督は話している。
考えてみれば、過去をモノクロで表すのは、フィルムの影響でしかない。
モノクロフィルムしかなかった「過去」をもつ人だけが、
「過去=モノクロ」という数式を頭の中に作っているのだろう。
写真やフィルムもなかった「大昔」は、果たしてどうだったのだろう?
もし将来、すべての映像がデジタル化され、色あせしなくなったとき、
「過去」はどんな色で表現されるのだろうか?
 
東監督も原作者の目取真氏も、沖縄=癒しの島、三線弾いて泡盛、
というような本土が作ったイメージの「沖縄」にしたくなかったと言っている。
「沖縄=青い空と海」や「過去=モノクロ」というイメージを何の疑いもなくもっているように、
自分の頭で考えているようで実は数式を機械的に解いているだけということが、
自分の日常生活や職場や社会の中にたくさんあるのかもしれない。
主役の清吉おじぃや志保さんが、静かに、心から自分の言葉で話していたように、
もっとちゃんと自分自身で生きる大切さを、
映画を見終わったあとに理解して初めて、私は深く深く感動してしまった。
「風音」は、耳ではなく、魂で感じるものかもしれない。
 
 
 
DATA
日本映画/2004年/監督(東陽一)/企画・製作(山上徹二郎)/
製作(石川富康、塚田博男)/原作・脚本(目取真俊)/助監督(兼重淳)/
出演(上間宗男、加藤治子、つみきみほ、吉田妙子、島袋朝也、伊集朝也)