「君の膵臓をたべたい」
原作は葬儀のシーンに始まるが、映画版は原作にはない「12年後」から始まった。
どちらもすでに逝ってしまった彼女を「僕」が回想する形式なのは同じだが、
死の1カ月後と12年後では、かなり印象が変わってくる。
第一印象をいえば、原作の方が躍動的なリアリティがあり、映画の方が俯瞰的でわかりやすかった。
それは、先に原作を読んでいたことと無関係ではないだろうけど…。
原作は会話劇が面白かったが、映画では大幅に割愛されて、
メインのエピソードをなぞっていくダイジェスト版を見ているような感じだった。
頭の中で描いていたものが映像となって見られるのは、とても贅沢な気分だった。
とりわけ、山内桜良役の浜辺美波は、天使のような美しさだった。
天真爛漫、弾けるような笑顔、そして、余命1年という苦難を背負い込む時に見せる切なさ、悔しさ、寂しさ…。
様々な感情を表情豊かに演じていて、見とれるばかりだった。
相手役となる「僕」とのバランスがポイントになるが、
演じる北村匠海もピッタリな雰囲気で、違和感は全くなかった。
原作を読んでいたときは、どうしても恋愛物語としてみていたんだなと、映画をみて思った。
桜良が死ぬまでにやりたいことリストに挙げていたことの1つに、
「恋人でも好きでもない男の人と、いけないことをする」というのがあって、
これがかなり謎といえば謎だったのである。
「私を彼女にするつもり、ある?」という質問も、真意はどこにあるのだろうと考えてしまう。
映画は、恋人とは一線を画したふたりの関係性がより明確に描かれていた。
原作の編集者である荒田英之氏のコメントによれば、
「【僕】と桜良の関係性は、恋愛ではない、ラブストーリーではない。そういう括りを使わずに
ふたりの尊い関係性を描きたい、という思いが住野さんの根底にあった。」とある。
ホテルの同じベッドで一夜を明かしたり、ハグしたり、やっていることは恋人同士のようなのに、
彼女に「そのつもりはない」のである。
「一体何なんだ!」と読者も「僕」も考えてしまうわけだが、
それは、彼女の余命が短いことを抜きには考えられないに違いない。
原作の最後の方で、このままずっと付き合っていったら、キスとかしちゃいそう、というような一文があった。
彼女に、その時間がない。
そのことを「僕」も読者も知ってはいるが、切羽詰まった実感として感じているのは、
彼女のみだと考えれば、すべての辻褄が合う気がする.。
屈託のない美しい笑顔の向こう側にある秘めた想いに、心が苦しくなる。
身体の悪い部分があると、他の動物の同じ部分を食べて治すといった風習がタイトルの背景にある。
そう思える相手とはつまり、自分に欠けている何かをもっている人、という意味になる。
お互いがお互いに憧れていた桜良と「僕」。
単なる偶然などではなく、そういう特別な相手だからこそ、一緒に過ごすことを選んだふたり。
彼女が先に気付いていた。
「1日の価値はみんな同じだよ」という桜良の言葉が活きてくる。
そのことにようやく気付いた「僕」が彼女に送ったメールには、
「君の膵臓がたべたい」と書かれていたが、その頃、彼女は…。
先に読んだ原作の方が、内容が濃いし、エピソードも多くて、面白いように思った。
ただ、この作品の根底まで深く理解できたのは、原作のエッセンスを絞り込んだ映画をみてからだった。
12年後の僕(小栗旬)や親友である恭子(北川景子)の中で、まだ桜良が生き続けていることを描くことによって、
お互いの深い関係性がより強く感じられる。
「桜は散ったふりして、咲き続けているんだよ!」
桜良の台詞が余韻として残っている。
DATA
日本映画/2017年/115分/シネマスコープ/
監督(月川翔)/脚本(吉田智子)/プロデューサー(神戸明)/
原作(住野よる)/音楽(松谷卓)/
出演(浜辺美波、北村匠海、大友花恋、矢本悠馬、北川景子、小栗旬)