「北の桜守」
「北の三部作」の最終章。
主演の吉永小百合にとっては、120本目の節目となる出演作となる。
監督は3作別々で、今作は「おくりびと」(08)の滝田洋二郎。
前2作も未見なので、特に見たいと思ってなかったのだが、
その理由も大したことはない。
以前みた吉永小百合主演の「母べえ」(08)と「母と暮せば」(15)があまり面白くなかったことと、
この手の戦中戦後の庶民の苦しみを描いた作品はそこそこ見ていて、
今、どうしても見ておきたいという興味が湧かなかった、というようなところである。
それより「空海」、「グレーテスト・ショーマン」若しくは「シェイプ・オブ・ウォーター」辺りを見たかったが、
一緒に行く友人が何度訊いても揺るぎなく今作を推したので、期待値ゼロで見ることになった。
期待も事前情報もなかったことで、個人的には最も幸福な映画との出会い方になった。
まだ日本の領土であった樺太を舞台に、物語は始まる。
歴史に埋もれてほとんど知られてないが、樺太でも沖縄と同じく地上戦があって、
多くの犠牲者を出し、日本に引き揚げた者やロシアに残された者がいたという。
主人公・江連てつ(吉永小百合)は出征する夫・徳次郎(阿部寛)を見送りながら、
庭の桜が咲くのをいつか必ず家族4人揃って見みましょう、と誓って別れる。
これが今生の別れとなるのだが、未亡人となったてつの半生は、
網走の厳しい寒さと極貧の日々で苦悩に満ちたものとなる。
時代は高度成長期となり、次男の修二郎(堺雅人)は、コンビニの日本社長として成功を収めていた。
母のてつとは疎遠になっていて、その経緯が「現在」と「過去」を何度も往来する中で明らかにされていく。
似たような作品が多数ある中で、予定調和的になって感動が薄れてしまうリスクもあったと思うが、
今作では時折挿入される劇中劇がとても効果的だったように思えた。
見る人によっては、「なぜ突然、舞台劇?」と白けてしまったかもしれないが、
個人的には、とても面白い映像体験であった。
てつの心象風景のような場面が照明やマイムといった最小限の舞台装置で表現され、
その舞台だけを観ていたら抽象的なイメージだけになったかもしれないが、
リアルな映像表現との相乗効果によって、てつの心情がダイレクトに伝わってきたように思えた。
てつの過酷な半生を振り返りながら、鮮明な記憶、曖昧な記憶、封印された記憶を交錯させ、
時代の変遷が丹念に語られていて、何度も何度も目頭が熱くなった。
自分もわりと貧乏な子供時代を過ごしたので、当時の苦労話をする母とてつの姿が重なって、
感動が増幅されたような気もする。
過酷な時代を生き抜いたてつ、辛いことの多くを忘れて、今の幸せを無邪気に感謝しているてつを演じた吉永さんが
本当に可愛らしくて、魅了されてしまった。
貧しさは人を狂わせてしまう面もある。
父を亡くし、母とは離れて生きざるを得なかった修二郎は、必死に這い上がって社会的成功を掴み、
二度と貧困とは決別すべく鬼のように働いている。
そんな彼の前に突如てつが現れ、多忙を極める修二郎の生活を乱していく。
今まで音信不通だったのに、なぜ、今更出てくるのか?
そんな激情がこみ上げつつも、母の深い悲しみや愛情に触れるうちに、
封印していた自身の過去とも向き合うことになり、本当の意味で再生していく修二郎の姿も感動的だった。
どんなときに、人は狂うのか?
自分の思うとおりにならないからといって、抵抗する力のない幼児を暴力やネグレクトで虐待する大人が現にいる。
戦闘状態の混乱に乗じ、武器をもたない女性を犯し、子供を殺害する大人が現にいる。
一方的に恨みを募らせ、母校にいる無実の青少年らをマシンガンで殺戮する大人が現にいる。
そんな悲しいことが次々と続いている世の中にあって、
てつや修二郎が辿っていく戦後の記憶を観ていると、平凡に、誠実に、悲しみを乗り越えてきた姿に励まされる。
吉永さんの作品はほとんど見てないが、
その類い希なる魅力を最大限に引き出した作品ではないかと思える。
見てよかった!
DATA
日本映画/2018年/126分/
監督(滝田洋二郎)/脚本(那須真知子)/製作(戸田裕一他)/
製作総指揮(早河洋、岡田裕介)/舞台演出(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)/音楽(小椋佳他)/
出演(吉永小百合、堺雅人、篠原涼子、岸部一徳、阿部寛、佐藤浩一)