「パコと魔法の絵本」
−PACO and the Magical Book−
 
 
 
変な映画、である。
とある古い屋敷に老紳士・堀米(阿部サダヲ)が訪れると、
大勢の主婦たちがハワイアン&タヒチアンダンスを踊りまくってるというオープニングからして奇抜。
このシーンの意味は定かではないが、堀米が屋敷の二階に案内されると、
ライオンのような髪型をした老人の遺影が飾ってある。
このドラマの主人公、大貫(役所広司)である。
大貫の口癖は、「お前が私の名前を知ってるってだけで腹が立つ」だったと回想しながら、
「なんてひどい奴だ!」と思い出すだけで怒り出す堀米。
しかし、この台詞こそが、このドラマの核であると段々とわかってくる…。
 
中島哲司監督といえば、「下妻物語」である。
目まぐるしい展開は、今作でさらに加速し、感動的なシーンでさえ、
余韻にひたる間もなく次の笑いへとパッと展開する。
緩急を畳みかけるようにつなげて、半ば力ずくで観客を物語の世界に引きずり込んでいく。
 
劇中に出てくる魔法の絵本「ガマ王子とザリガニ魔人」が
とてもコントラストの強い色彩をもってるのに呼応するように、
登場人物らのキャラもコントラストがクッキリしている。
主人公の大貫が、現役をまさに退こうとする老人なら、
もう一方の主役パコ(アヤカ・ウィルソン)は「歳をとらない」少女である。
一代で大会社を興した過去の栄光と苦杯にとらわれ続ける大貫に対し、
パコは一日で過去の記憶を失ってしまう。
強くあり続けなければと気負って生き抜いてきた大貫がパコとの交流を通じて、
弱い自分に気づき、受け入れていく過程は、よくあるパターンではあるが、素直に感動できる。
 
予想を裏切られたい、という願望を、
人は心のどこかで常にもっているのかもしれない。
「たぶん、無理だろう」「でも、もしかしたら…」
そういう気持ちを僕らは絶えず、持ち続ける。
絶対ではなく、ほんの少しの可能性を信じるところに僕らの希望は生まれるものだ。
この作品は、その辺のツボをしっかり抑えて、あらゆる場面で予想を裏切っていく。
乱暴な言動を繰り返し、パコにも手をあげるほどの暴君だった大貫が、一瞬にして別人に生まれ変わるのだ。
劇中劇で、堀米扮するヤゴが「せ〜いっちゅう!」と言ってトンボに変身するシーンでリフレインされるように、
余命短き大貫の行方も一瞬で意外な方向へと変化する。
不思議なことだが、人は自分の思い通りにことが進んでいると、満足感や喜びに満たされるのと同時に、
少しずつ不安をためていくような気がする。
そして、案の定、どこかで失敗したり、挫折する。
すると、ガッカリ落胆するが、心のどこかでは、ほんの少しだけホッとしてたりするのだ。
 
この宇宙は、相反する二つのものから成り立っている、という思想がある。
陰と陽、プラスとマイナス、善と悪、男と女…。
そんな二元論で簡単に捉えられるほど世界は単純ではない、という考えも一方にあるが、
少なくとも1つだけの「絶対」があるわけではないと思う。
主人公の大貫が庭に咲いた花を引きちぎりながら、
「弱いものはなくなってしまえばいい。そうすれば強いものだけが残るからいいのだ」と言うシーンがあった。
「そんなことはないだろう?」と観客に働きかける台詞。
ワーキングプア、ニート、過労死…、そんな言葉が日常的になってしまった最近の日本は、
あたかも強い人だけが生き残ればいいという世の中に向かっているかのようだ。
「そんなのよくないだろう?」と心に働きかける映画、
決して、変なだけな映画ではなかった。
 
「私は、この子の心にいたいんだよ。」
大貫の言葉が、じんわりと心に残った。
 
 
109Cinemas MM横浜
 
 
DATA
日本映画/2008年/105分/監督(中島哲也)/
製作(橋荘一朗、安永義郎、島谷能成)/原作(後藤ひろひと)/
脚本(中島哲也、門間宣裕)/音楽(ガブリエル・ロベルト)/
出演(役所広司、アヤカ・ウィルソン、妻夫木聡、土屋アンナ、阿部サダヲ、加瀬亮、
小池栄子、劇団ひとり、國村隼、上川隆也)