「告白」
 
 
 
映画も大ヒットし、原作もベストセラーになっている。
これほどヒットしているのだからいい映画なのだろうと期待して見たら、
想像とは全く別の恐ろしく不気味な作品だった。
R15なのも納得である。
これを子供、特に中学生に見せてはいけないと思った。
 
舞台は、とある中学校、1年B組、終業式のクラスルーム。
担任の森口悠子(松たか子)は、ざわつく生徒らを前に淡々と話し続けていた。
黒板に大きく「命」と書いて始まった授業。
プールで水死した娘の愛美が事故死ではなく、実は、殺人だったという。
しかも、殺人犯はこのクラスの中にいる生徒AとB。
そんな衝撃的な話から始まる先生の告白は、
隣同士でしゃべったり、席を立って歩き回ったり、
窓の外をぼんやり見ていたりする生徒らの前を素通りしていく。
昔の中学生に比べると遙かに見栄えのする大人びた容姿ではあるが、
心の中は涸れていて、全身すっぽりとぬいぐるみを被って、隠れているようにも映る。
守り育てるべき子供らが、どこか疎ましい存在にさえ感じられた。
空気のような生徒らを前に、独白のような「告白」に始まるこの物語は、
娘を殺された先生=大人が、生徒=子供に復讐して終わる。
見終えて真っ先に感じたことは、
「なぜ、今、この映画・小説がヒットしているのか?」という疑問だった。
 
先日、「一億総ガキ社会」(著:片田珠美)という本を読んだ。
精神科医である筆者が、最近の臨床場面で診ている症例や背景にある社会状況を分析したもので、
奇抜なタイトルにも負けない的確な内容だった。
フロイトによれば、人間は「自分は何でもできる」という万能感を幼児期にもつことが必要で、
これが欠如すると長じて自尊心をもつことができなくなるという。
一方、獲得した万能感は、その後の成長過程で歯止めがかからなくてはならない。
かつては、社会秩序や法、理想、伝統、家庭内での父性などが歯止めとなっていたが、
戦後の解放ムードや自己の自由が容認されるようになると、
著者のいう何でも他人のせいにする「他責社会」の傾向が強まり、
「自分は何でもできる」という幼児的万能感をひきずり続ける若者や大人が増えてしまったという。
失敗や挫折経験の少ない子供が肥大化した自尊心が傷つくのを恐れる余り、
他責的になったり、ネットというシェルターに隠れたまま、
一方通行の中傷やいじめにはまっていってしまうようだ。
 
殺人犯の生徒は、この本に登場する自己愛に満ちた成熟拒否の若者そのものである。
大部分の子供は問題ないのかもしれない。
しかし、かつての常識では考えられないような社会現象や事件が発生するなか、
「ちょっとヤバクなってるんじゃないか?」という危機感が、
この映画に人を向かわせているのかもしれない。
子供に責任はない、と思う。
そんな子供を育てた大人、そんな社会を作ってきた大人にこそ責任があるはずだが、
それさえも、他責社会下では認知されないのだろうか。
大人の責任のとり方として、子供に復讐する他なくなってしまった。
それが、この映画の肝である。
救いのない作品だなと思うが、それほど根が深いともいえる。
 
先の本では、最終章で対応策に触れている。
しかし、非常に困難な問題で安易な処方箋では根本解決できないと断言している。
部分的に要約すると、あるがままを直視し、気づき、受け入れるということのようだ。
「断念によって自らの敗北や失敗といった『対象喪失』を受け入れてはじめて、
敗者への思いやりや弱者への共感をもてるようにもなる。」
自らの可能性を諦めきれない未成熟な若者や大人を対象にしているからこそ、断念する大切さを説いているが、
夢を見つづけることや諦めないことも大切なことである。
断念することと諦めないこと。
その地道な繰り返しの中に、自分なりの楽しさを見つけるしかないだろう。
 
 
 
DATA
日本映画/2010年/106分/監督・脚本(中島哲也)/製作(島谷能成ほか)/
原作(湊かなえ)/音楽プロデューサー(金橋豊彦)/
出演(松たか子、木村佳乃、岡田将生)