「ゲド戦記」
−Tales from Earthsea−
 
 
 
これは、心の中で見る映画なんだなぁと、見終えてしばらく経ってからジワ〜と思えてきた。
目の前の銀幕で見ているのとは別に、
それを受けとめた心が自分の内側に描く物語なのだと。
まるで私小説のような、とても内省的な印象をもった。
 
そのイメージを何度も何度もかき立てるのは、挿入歌「テルーの唄」である。
鈴木プロデューサーがたまたま手嶌葵の歌声を聴いて、テルーにぴったりだと直感。
鈴木氏は萩原朔太郎の「こころ」を宮崎吾朗監督に暗誦して聞かせ、作詞を依頼。
戸惑いながらも、吾朗監督はその翌日には「テルーの唄」の詞を書き上げ、
さらに10日後には谷山浩子(懐かしい!)が曲をつけ、手嶌の歌声が吹き込まれたという。
そんな即興に近いこの歌は、ヒロイン・テルーの声(手嶌葵)と同様、
とても純粋で力強く心の奥深くにまで染みてくる。
♪心を何にたとえよう 鷹のようなこの心
♪心を何にたとえよう 空を舞うような悲しさを
映画館のトイレでこの歌を口笛で吹いている人がいて可笑しかったが、
確かに頭の中をぐるぐる回ってしまう美しい歌、そして声である。
 
「ゲド戦記」の原作者は、アメリカ人のアーシュラ・K.ル=グウィンさん(1929年生まれの女性)。
「指輪物語」や「ナルニア国ものがたり」とともに、世界三大ファンタジーといわれているらしい。
さらにこの映画には原案があって、それが20数年前に宮崎駿が「ゲド戦記」に
インスパイアーされて描いた「シュナの旅」である。
キャラクターのデザインも宮崎駿のものなので、
見ていると宮崎駿監督の作品のようでもある。
 
吾朗監督の父である宮崎駿は、全くアニメを作ったことのない息子が監督することに大反対だったらしい。
あまりに偉大な父が大きな壁となって立ちはだかり、息子がそれにぶつかっていくという図は、
映画の主人公アレン(岡田准一)が父である国王(小林薫)に剣先を向けていくのとよく似ている。
「ゲド戦記」の翻訳者、清水真砂子さんは、「今、若い人たちが生きにくく、呼吸困難になっている原因は、
精神的な父親殺しができにくいことにあるような気がする」と書いている。
どういうことなのだろう?
立ち向かうべき父がすでに不在、という意味だろうか?
 
この映画は、わりと説明が少ない。
どうして父親を殺したのか?
大賢者ハイタカ(菅原文太)にはどんな過去があるのか?
よくわかんないなぁってところがが結構あった。
あとで監督のインタビューを読んでわかったのは、
原作自体がそのように書かれているということだった。
答えを示すのではなく、常に読者に問いかけるように書かれている原作を踏襲し、
ハイタカもまたアレンに問いかけ続けるわけである(なるほど!)。
 
この映画には、なかなかいい台詞が多い。
テルーがアレンに言う「いのちを大切にしない奴なんか大嫌いだ!」とか、
ハイタカがアレンに言う「自分がいつか死ぬ事を知っていると云う事は、我々が天から授かった素晴らしい贈り物」とか…。
監督のインタビューの中で、「この映画に出て来る人はみんな孤独」というのがあった。
「限りある命」や「孤独」、「均衡を崩した世界」などのキーワードは、
今の世界や現代社会が抱えている問題と重なってくる。
 
クライマックス、大賢者であるハイタカが魔法を使えばいいのになぁ、と思ってみていたが、
結局、何も手が出せなかったのが少し不思議に思えた。
実は、それにもまた、原作者、監督の思いが託されていた。
それは見た人それぞれが感じればいいのだろう。
あとからしみじみとくる含蓄深い作品である。
 
ラストシーンは、思わず「もののけ姫」を思い出してしまった。
いやいや「カリオストロの城」でもあるかな。
ちょっと切ないのが、いいのかも…。
 
 
 
DATA
日本映画/2006年/監督・脚本(宮崎吾朗)/脚本(丹羽圭子)/
プロデューサー(鈴木敏夫)/原作(アーシュラ・K.ル=グウィン)/原案(宮崎駿)/音楽(寺嶋民哉)
声(岡田准一、手嶌葵、田中裕子、香川照之、風吹ジュン、菅原文太)