「長江にいきる 秉愛の物語」
−秉愛 bingai−
 
 
 
全長6300kmにも及ぶ中国最大の河、長江に建設中の三峡ダムが舞台である。
長江で最も風光明媚な3つの峡谷があるところから三峡ダムと命名されたこの巨大プロジェクトは、
孫文によって1919年に構想された。
以来1世紀近く、世界大戦や内戦、文化大革命、天安門事件など中国内外の動乱期を経て、
1994年になってようやく竣工された。
2008年北京オリンピック開催、そして、2009年、世界最大のダムが完成する。
 
三峡ダム建設にともない、約140万人もの住居と田畑が水没したという。
13億人におよぶ国民の約1割分に当たる電力をまかなうためには、必要な犠牲なのだろう。
経済的な費用対効果で考えれば、計算は合うのかもしれない。
原発のような放射能汚染の心配がなく、火力発電よりもCO2発生が抑制できるといった環境的メリットもある。
一方、国内では反対意見も多く、生態系への影響や三国志をはじめとする史跡が水没してしまうこと、
また、あまりに巨大なダム建設によって地震を引き起こすという予測があり、
因果関係は不明だが、2008年5月には四川大地震が起きてもいる。
明らかな不正、誰にも恩恵がない愚行であれば、しない方がよいに決まっているが、
光と影が混じり合う行為の場合、その判断は極めて困難である。
 
この作品は、家族と田畑と平穏な生活を守るため移住を拒否する一人の農家女性、秉愛(ビンアイ)を通じて、
一個人と国家権力の7年にわたる攻防を追ったドキュメンタリーである。
「国家権力」とは不思議なもので、それ自体は巨大であっても、
姿が見えず、一個人が戦える相手とは到底思えない。
しかし、フォン・イェン監督が惚れ込んだ秉愛という女性は、
はじめから負けがわかっている相手に対し、一歩も譲らず、強い意志を貫き通す。
前述のとおり、このダム建設の是非は判断し難く、
この作品でもその部分を問うているわけではないのだろう。
のどかで美しい長江の風景の中で、凛として生きる秉愛という人となりを伝えたかったのだと思う。
 
ロウソクをともした静かな夕げの食卓、
畑に実った桃を夫婦で分け合うほのぼのとした情景、
移住騒動で勉学に打ち込めない子供を気遣う姿、
土地の分配について村民が集まって口角泡を飛ばし合って議論する様子など、
農村での暮らしは、超大国中国のイメージの対極にある、
とてもつつましやかで人間そのものが感じられる暮らしぶりである。
それは、いつか日本もたどった道なのだろう。
そして、また、今まさに直面している課題であるのかもしれない。
 
歩いて10分で行ける駅までバスに乗りたいという子供に、
「歩いていけばいいだろう」と僕は言った。
「子供料金でたった50円なんだよ」というので、
「お金の問題ではなく…」と続きを言いかけて他の話になってしまったが、
果たして、お金ではない何の問題と言えばよかっただろう…。
便利さ、快適さの追求が文明の歴史であり、その延長線上にある今の暮らしは、確かに悪くない。
しかし、自分の足で歩けるところなら、わざわざバスに乗らなくてもいいし、その方が健康的だと思う。
それと同じように、たとえ貧しくても自分が生まれ育った農村での生活を続けたい
と願う秉愛の気持ちもわかる気がする。
詰まるところ、ほどほどがよいと思うのである。
最近、ほどほどでないことが多くなってきているようで、
余計にそんな気がしてしまう。
 
 
 
ユーロスペース
 
DATA
中国映画/2008年/117分/製作・監督(フォン・イェン)/
共同製作(チャン・ヤーシュエン)/撮影(フォン・イェン、フォン・ウェンヅ)/
音響設計(菊池信之)/出演(秉愛、熊雲建)